
看護師採用に困ることのなかった優良病院に、ある日突然、転職希望者がまったく集まらなくなった。
全国から患者の押し寄せる有名病院に訪れた危機に、伊藤が取った行動は…。
「看護師さんの採用支援?ウチはブランドがあるから、普通に募集すれば採れるから」。
デスクに座ったままの人事担当S氏は、伊藤の顔をチラッと眺めてそう言った。
B病院はある分野で先進的な手術を行うことで全国的に知られる優良病院で、豪華な施設と高度な医療設備を備えていた。特別なにか手を打たなくても人が集まるだけに、人材紹介会社を利用した採用は、特定分野の高度な専門性を持つ看護師の募集に限られていた。
伊藤は、先輩が何度も通い詰めてやっとB病院とお取引を開始できた、という経緯を知っていた。それだけに、何とか良いお手伝いをしたい…というのが彼女の思いだった。
病院の事務室からの長い廊下を歩いていると、見覚えのある男性の姿が見えた。「またあの人だ…」それは、C社のコンサルタントだった。伊藤が担当しているのは、後発のクイックが苦戦する数少ないエリア。C社は、この一帯でシェアを獲得している人材紹介会社だった。いつも伊藤は、このコンサルタントと、無言の闘いを繰り返してきた。
すれ違いざまに、伊藤は相手の顔をじっと見た。「こんなに要望の高い病院なのに、このコンサルタントは、結果を残せているんだろうか」。
それから2ヶ月が過ぎたある日。突然、事情は一変した。伊藤が久しぶりにB病院に訪れると、あれほど堂々としていたS氏の様子が、明らかに以前とは違っていたのだ。「伊藤さん、聞いて下さいよ。どうしてか、看護師がぱったり集まらなくなってしまったんだ」。某然とした顔で、S氏は言った。
以前は毎月のように看護師を採用していたものの、かれこれ3ヶ月採用ゼロが続いているらしい。応募が激減していることに加え、追い打ちをかけるように、他の人材紹介会社のコンサルタントが、全く顔を出さなくなったという。「きっとうちの病院に看護師を集めるのは大変だから、商売にならないと判断されたのだと思います」S氏はため息混じりにそう語る。
聞けば、実は応募者は以前から徐々に減っていたという。ただ、上場企業から転職し、この病院で初めて人事に携わることになったS氏には、全く採用できなくなるまで危機感を抱くことはできなかった。初めて事態の深刻さを理解したときには、もう遅かった。
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「何が理由なのかも、さっぱりわからないんです」S氏は頭を抱えてうなだれた。
だが、伊藤にはひとつ心当たりがあった。鞄の中から、S氏にいつかお見せしようと準備していた資料を取り出した。「これは、この地域の看護師給与相場を記したものです。ご覧ください、B病院は明らかに給与が低く、市内の一番給与が高い病院と比べると、年収にして100万円近く違っているんです」
以前は給与が安くても、話題性で採用ができていた。ここのところの採用難は、給与の高い他病院からの募集が一気に増えたためだった。
この報告に、S氏はただ驚いていた。全く相場を知らなかったのだ。
「そうなんですか…。でも、うちは法人全体で管理をしているため、簡単に初任給を変えるわけにはいかないんです」。
伊藤は悩んだ。確かにB病院のような大病院ともなると、そう簡単に全員の給与テーブルを見直すことは難しい。何か、初任給をカバーできるほどの魅力を探さなくては、と思うが、全国的に有名な高度医療の売り文句でさえ埋められない溝を、果たしてなにが埋められるだろう…。
だが、調べて見るとアピールできることはたくさんあった。
昇給率が高いこと、キャリアパスがしっかりしていて長く働けること、売上げの10%を教育費に充てていること、新人育成の仕組みが充実していること…。
ただひとつ、問題があった。それは、 B病院の看護師不足は一刻を争うほど深刻だったということ。伊藤は病院の中を見渡し、気がついた。ここは難病に罹った患者さんが、全国から最後の望みを抱えて集まる場所。何千人もの命を救っている場所だ。一刻も早く看護師を集めなければ…。
クイックだけでも看護師を集めることは可能だ。だが、充足まではどうしても時間がかかってしまう。そのとき、脳裏に、あのC社のコンサルタントが浮かんだ。あの人に協力してもらおうか…しかしそれではライバルに、みすみすビジネスチャンスを分け与えることになる。
伊藤は迷った末に、提言した。「C社をはじめ、他の人材紹介会社にも声を掛けていただけませんか。集まらなかった原因さえわかれば、協力してもらえるはずです」



